安宅船(あたけぶね)は、室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船の種別である。
巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ないが、戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進されることから小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができた。当時の日本の水軍の艦船には安宅船のほか、小型で快速の関船と関船をさらに軽快にした小早があったが、艦隊は安宅船を中心に関船と小早を配して編成され、安宅船が戦艦の機能を果たした。
名称
安宅船は安宅、阿武とも書き、中近世の日本の軍船のうち大型のものを指した。大きいものでは長さ50m以上、幅10m以上の巨体を誇り、大安宅(おおあたけ)と呼ばれる。
史料上に安宅船の名が現われるのは16世紀中葉の天文年間頃の河野氏配下の伊予、すなわち当時の水軍先進地域である瀬戸内海西部においてである。
「安宅船」と呼ばれるようになった由来は定かではないが、巨大で多くの人の乗り組める船であったから「安宅」となったという説、「暴れる」という意味があった「あたける」という動詞から来ているという説、北陸道の地名である安宅(あたか、現石川県小松市)と関係あるという説、陸奥の阿武隈川流域を指した古地名の阿武と関係があるという説などがある。名称に関する決定的な説はないが、日本の船の種別名では肥前松浦の松浦船、熊野灘の真熊野船の様にその船が建造され、使われていたりした地名を冠すると考えられるものが多い。
構造
安宅船は、遣明船でも使われた二形船(ふたなりぶね)や伊勢船(いせぶね)などの大型和船を軍用に艤装したもので、小さいものでは500石積から大きいもので1000石積以上の規模を誇った。
当時の和船に共通する構造上の特徴として、大型船ではあるが安宅船もまた板材を縫い釘とかすがいによって繋いで建造されており、西洋や中国の船のように骨格としての竜骨はない。 これは、外板で応力を受け持つモノコック構造だったからである。そのため、軽量で頑丈、構造船を建造することができた。しかしながら、同構造の諸船種と同様に水密が弱いため衝突や座礁等による漏水には弱かった。これは軍用船としては、体当たり攻撃が不可能である事を意味し、大きな欠点となった。また西洋の船と違い、外洋に出る能力は限定的だった。
船体の特徴は、船首が水を切って進むための下部が鋭角的な水押(みよし)造となっていて、上部が方形の箱造りの乗った形状をしている点である。この形状によって確保した広い艦上に楯板を舷側と艦首・艦尾に前後左右の方形に張って矢玉から乗員を保護した。もともと速度の出ない大型船であるため船速は犠牲にされ、楯板は厚く張られて重厚な防備とした。楯板には狭間(はざま)と呼ばれる銃眼が設けられ、隙間から弓や鉄砲によって敵船を攻撃した。接舷時には敵船に斬り込むために楯板が外れて前に倒れ、橋渡しとできるようになっていた。楯板で組まれた総矢倉のさらに上部には矢倉が乗り、外見の上でも城郭施設に似ている。特に大きな安宅船には二層から四層の楼閣があげられていた。その構造と重厚さから、安宅船はしばしば海上の城にたとえられる。
後期に入ると大型化と重武装化が進み、特に火器を使った戦闘に対応して楯板に薄い鉄板が張られることもあったとされる。武装も陸上の持ち運びに適さない大鉄砲や大砲が配備され、強力な火力で他艦を圧倒した。
推進には帆も用いたが、艪が少ないもので50挺ほどから多いもので150挺以上に及び、50人から200人くらいの漕ぎ手が乗った。大安宅では2人漕ぎの大艪を用いる場合もあった。戦闘員は漕ぎ手と別に乗り組み、やはり数十人から数百人にのぼる。
歴史
日本では、古代には諸手船(もろたぶね)と呼ばれる小型の手漕ぎ船が軍事用に使われていたことが記録にあり、のちの安宅船などの軍船の起源と考えられる。中世の前半には海上で活動する軍事勢力が活躍するようになるが、水軍専用に建造された軍船はなく、漁船や商船を陸戦で用いられる楯板で臨時に武装したものを使用していた。
本格的な軍船の登場は室町時代中期以降のことであり、戦国時代に入ると、戦国大名による水軍の組織化が進むのと歩をあわせるようにして、毛利氏、武田氏、後北条氏などの有力な大名は少数ながらも配下の水軍に安宅と呼ばれるような大型の軍船を建造させるようになった。
織田信長は、1573年に自領の内海となった琵琶湖で長さ三十間(約55m)、百挺立ての大型船を建造したことが知られる。1578年には配下の水軍を率いる部将九鬼嘉隆に命じて伊勢で6艘の大安宅船を建造させた。その規模は、その噂を聞いて書き残した興福寺の僧侶の記録(『多聞院日記』)によれば横七間(幅約12.6m)、竪十二、三間(長さ約24m)で、鉄張りであったという。鉄張りにしたのは毛利氏の水軍が装備する火器の攻撃による類焼を防ぐためと考えられ、当時の軍船としては世界的にみても珍しい。これが有名な信長の「鉄甲船」で、多聞院日記の通りだとすれば全長が寸胴過ぎるため、実際には30mから50mほどの規模であったと考えられている。この大安宅船を実見した宣教師ルイス・フロイスの証言によれば、各船は3門の大砲と無数の大鉄砲で装備していたといい、大阪湾に回航されて毛利氏や雑賀衆の水軍との戦いに活躍した。ただ鉄張りについては伝聞を記した多聞院日記にしか記載されておらず、実見したフロイスの記録にも無いため「鉄甲船」の存在を疑問視する声もある。
1591年に始まる豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では軍需物資や兵員を輸送し、兵站を維持するために大量の輸送船が西国の大名によって建造された。これらの輸送用の船舶とは別に、緒戦期に朝鮮水軍の襲撃で被害が出ると日本側も水上戦闘用に水軍の集中と整備を開始し、「太閤記」などの記述によれば石高十万石につき大船(安宅船)二隻を準備させたという。その結果、慶長の役では日本水軍が活躍することとなった。また、この役のために九鬼嘉隆が建造した鬼宿は長さ百尺(約30m)、櫓百挺で、漕ぎ手と戦闘員をあわせて180名が乗り込むことができた巨船で、豊臣秀吉の命名によって日本丸と改名されたことで知られ、安骨浦海戦では敵の襲撃を強靱な船体で受け止め、脱出に成功している。(大きさについては異説あり)また、山内一豊に宛てた手紙では、「船長十八間(約32m)、幅六間(約11m)」と規定した軍船の建造を命じている。
関ヶ原の戦いを経て江戸時代初期には、日本の各地で次々に巨城が築城された軍事的な緊張の時代を反映して九鬼氏をはじめ西国の諸大名によって日本丸を上回る巨艦が次々に建造され、安宅船の発展はピークを迎えた。しかし1609年に江戸幕府は水軍力の抑止をはかって500石積以上の船は軍船に限らず一切の建造を禁じ、大安宅船の時代は終わった。
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1615年に大坂の役が終わり平和の時代が訪れると安宅船の軍事的な必要性は薄れ、速力が遅く海上の取り締まりの役に立たない安宅船は廃れ始め、かわって諸藩の船手組(水軍)は快速の関船を大型化させて軍船の主力とするようになっていった。
1635年、江戸幕府は史上最大の安宅船である安宅丸は長さ三十尋(約55m)で3重の櫓をあげ、200挺の大櫓を水夫400人で漕ぐという空前の巨船であった。しかし、安宅丸は巨体のために航行に困難が伴い、隅田川の河口にほとんど係留されたまま留め置かれた末に1682年に解体され、和船最後の巨船ともなった。安宅船の消滅以降、幕府や諸藩が巡行や参勤交代に使う御座船も関船となり、関船主力の時代が幕末まで続く。